インタビューコラム
ボートのトレーニングのために始めたクロスカントリースキーでめきめきと頭角を表し、競技歴わずか3年で2022年の北京パラリンピックに出場した有安諒平選手。現在は2026年大会や2030年大会での表彰台をめざしながら、北京パラの3カ月前に誕生した娘さんにめいっぱいの愛情を注いでいます。
インタビューの【後編】では、愛娘とのエピソードやクロスカントリースキーにかける思いをたっぷりとうかがいます。
Profile
有安 諒平(ありやす・りょうへい)
1987年、アメリカ・カルフォニア州で生まれ、5歳で日本に帰国。15歳のときに黄斑ジストロフィーを発症し、視覚障がい者となる。大学時代にパラ柔道に出会い、29歳でパラローイング(ボート)、32歳でパラクロスカントリースキーをスタート。2021年の東京パラリンピックにはローイングで、2022年の北京パラリンピックにはクロスカントリースキーで出場。2022年1月に長女が誕生。杏林大学医学研究科(博士課程)、東急イーライフデザイン所属。
——以前にスキーのご経験はあったんですか?
家族や学校の行事でよくスキーに行っていたので、山を普通に滑り降りるのは問題なかったです。だからなんとかなるかなって思ったんですけど、山を滑り降りるアルペンスキーと駆け上がるクロスカントリースキーはまったく別物でした。スキー板を使うという共通点があるので、なんとなく似たようなものだと思われるかもしれないですが、フットボールとアメリカンフットボールぐらい違っていて、走法から道具から、イチからガイドスキーヤーの藤田佑平くんに教えてもらいました。
——ボートとクロスカントリースキーの二刀流をスタートし、2026年のミラノ・コルティナ冬季パラをめざしていた有安選手。ところが、目標から4年も早い2022年の北京パラに出場されます。
これはコロナ禍の影響が大きかったです。というのも、ボートは4人の選手が密集する競技ということもあって、メンバーが集まっての練習が半年以上できなかったんですね。スキーはガイドと距離をとりながらであれば練習できたので、時間をまるまるスキーに使えたんです。
ボートの日本代表入りが決まってからも、合宿以外のスケジュールは全部スキーで埋めて、東京パラの選手村を退村した次の日から、それこそ閉会式も見られないくらいにギチギチに練習して、北京パラの最終予選の最後のレースでギリギリ標準タイムを切ることができて、首の皮一枚で出場権を得ました。さらに、東京パラと北京パラの間に娘が生まれているので、あの1年は本当にめちゃくちゃでした(笑)。
——娘さんのご出産には立ち会われたそうですね。
はい。ちょうどスキーの合宿に行く前日の夜に産気づいて、当日の早朝に生まれたんです。こればっかりは奥さんにがんばってもらうしかないので、右手にうちわ、左手にペットボトルを持って励ますことしかできなかったですけど、生まれた瞬間に立ち会えたのはとても大きかったと思います。ちょっと言い方がよくないかもしれませんが、血だらけで出てきた状態で対面して、抱っこして計測に連れて行って…。合宿中に生まれて、数日後にきれいな状態で対面するのとではリアリティが違ったんじゃないかなと。
——初めて抱っこされたときのことを覚えていらっしゃいますか?
はい。予定日より1カ月くらい早く生まれたので、軽かったですし、小さかったです。でもすごく…なんていうか、愛おしかった。親になる前は、子ども中心の生活って大変そうだなって思ってたんですよね。だけど実際に生活してみると、彼女を中心に回っていることに対するストレスを補って余りあるぐらいかわいくて。すごく価値観が変わったなって感じます。
——立ち会われたあとは合宿に行かれたんですか?
いえ、集合の数時間前にキャンセルの連絡を入れて、1カ月ほどは育休といいますか、自宅で個人トレーニングをしながら奥さんのサポートをしました。予定日よりだいぶ早かったのでバタバタしましたが、もともと子どもが生まれたら遠征には行かない予定だったんです。
——育休中はどんな生活でしたか?
新生児のときは、早く生まれたこともあって娘の生活サイクルが細かかったんですね。2時間おきくらいに起きて、授乳してという感じで、奥さんが寝られなくて大変そうだったので、0時から朝の5時くらいまでは粉ミルクに切り替えて僕がお世話をしました。奥さんが起き出したら昼くらいまで寝て、そのあとに2時間スパンでランニングに出かけたり、自宅に作ったトレーニングルームでトレーニングをしていました。
今は奥さんが仕事に復帰しているので、奥さんが娘を保育園に連れていくのを見送ってから後片付けと洗濯をして、トレーニングに行きます。夕方は奥さんと同じくらいの時間に帰ってきて、どちらかが夕食を作るという流れのことが多いですかね。スキーのシーズン中は国内外の遠征でほとんど家にいなくなるので、家にいるときは積極的に家事や育児をするようにしています。
——育児をしていて大変だなと思うのはどんなときですか?
細かいことはいっぱいありますよ。ごはんを食べるときにスプーンを投げないでほしいですし、コップをひっくり返さないでほしいですし、お風呂上がりにパタパタ逃げ回らないほしいですし(笑)。だけど、そのへんも全部ひっくるめてかわいさとか愛おしさが上回っているので、全部楽しいですね。遠征中に会えなくてホームシックになるくらいなので、一緒にいるときは1秒でも一緒にいたいというか、なるべくゼロ距離で一緒にいたい。ずっと膝に乗っけてベタベタしています。遠征中も毎日テレビ電話をつないで、なんとか顔を覚えてもらえるように喋っています。
——娘さんとはどういうふうに過ごすことが多いですか?
絵本を読むことが多いですかね。彼女が絵本をずるずる引きずりながら持ってきて、僕の膝に乗っかってきて。新しい絵本を買ってくるか借りてきたら、まず僕が奥さんに読み聞かせをしてもらって、内容や絵柄をなんとなく覚えてから娘に読むんですけど、完璧に覚えているわけじゃないので毎回微妙に話が違ったり、半分くらい創作になったりすることもあります(笑)。
——それだけしっかり育児にコミットされていると、これまで当たり前にできていたことができなくなったり、リソースを制限されることも出てくるのではないかと思います。子育てと競技、大学院での研究という三足のわらじを大変だなと思ったことはありますか?
娘が生まれ、博士課程が最終年度になったことで、実は今はボートの活動をかなり制限しています。正直に言うと、「家族とか子どもとか研究とか、全部何もなければいいのにな」という思いがよぎることは時々あります。何も制限がなければ、365日ナショナルトレーニングセンターに住み着いて、ひたすらケアとトレーニングと練習ができるのにって。
でも、最終的には奥さんと娘への愛おしい気持ちが上回りますね。朝4時に起きて山に走りに行くのか…と思うと、起き上がるのがしんどいときもありますけど、「ここで寝ちゃうと娘との時間が取れなくなっちゃうな」って思える。それが結局モチベーションにもなっています。娘は今2歳。彼女の記憶に残るタイミングを考えて、2030年の冬季パラでメダルを獲りたいという思いが強くなりました。
——2030年、有安選手は40歳です。年齢的な不安はありませんか?
大丈夫だと思ってます。というのも、パラのクロスカントリースキー選手って、わりと年齢層が高いんですよ。
多くの選手は20代ですが、北京パラで金メダルを3つ獲ったカナダのブライアン・マッキーバー選手は40代でしたし、2022-23シーズンのワールドカップ総合成績で3位になった新田佳浩選手も40代です。なので自分もなんとかなるだろうと信じてやるしかないと思っています。
——集大成の2030年に向けて、どのようなプロセスを踏みたいと考えていますか?
北京パラ後に、パラクロスカントリースキー選手会長の役職を新田選手から引き継ぎました。僕は競技者としては新米なので、選手会長に見合った実力をつけなきゃいけないという思いはもちろんありますし、それとは別に、現在7大会連続でメダルを獲得しているパラノルディックスキー日本代表チームをさらに強いチームにするという責任感を持ち、自分がその礎のひとつになるべきだとも思っています。自分が現役を終えた先まで見越して選手が活躍できるような環境を作っていきたいですし、若い選手やこれから競技を始める選手たちが活動しやすいような環境を作っていきたいですね。
——観戦者である私たちがパラスキーを見るときには、どんなところに注目すればいいですか?
競技としての魅力はいろいろあるんですが、僕がおもしろいなと思っているのは選手たちのキャラクターです。スキーっておもしろいことに、ノルディックとかアルペンとかスノーボードとか、種目ごとにやっている人の性格がどこか似ているところがあって、パラのノルディックチームは真面目にコツコツやるタイプの選手が多いです。地味だし、インタビューでももっとおもしろいことを言えばいいのに、なんて思ったりするときもあるんですけど、その実直さやひたむきさ、一生懸命さをぜひ好きになって、応援していただけたらうれしいです。